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亀岡市,不動産,中川住研

▼2011年5月19日 小幡神社

曽我部町探索中・・・偶然発見した小幡神社。静かなところで、聞こえるのは郵便屋さんのバイクの音くらいでした。なんでもこの小幡神社には、全国に3幅しかない円山応挙の絵馬の一つが社宝として保管されているのだとか・・・!応挙に馴染みの深い亀岡ならではの社宝ですね^^
場所:亀岡市曽我部町

小幡神社


▼2011年4月16日 穴太寺

小学校の写生会で訪れて以来、十数年来の訪問となりました!境内は桜が咲いて丁度見ごろ。本堂、多宝塔、鐘・・・と見所いっぱいの穴太寺です。木組みが大変綺麗で、古寺の雰囲気ばっちりです。本堂屋根下にはたくさんの千社札が貼ってありましたが、あんな高い場所にどうやって貼ったのでしょうか・・・壮観です。そろそろ花粉症も治まってくる季節ですので、広い境内をぶらぶらのんびり歩くのも良いのではないでしょうか^^
場所:京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46

穴太寺


▼2011年4月9日 金剛寺(応挙寺)

有名な穴太寺を訪問した帰り、ちょっと休憩と立ち寄った小道でたまたま金剛寺というお寺を発見しました!江戸時代を代表する画家圓山応挙の掛軸や手紙があり、応挙と縁が深いことから「応挙寺」とも呼ばれているのだそうです。門前には応挙のユニークな顔を描いた石碑がありました。なんでも応挙は少年期にこのお寺に預けられていたのだとか・・・。こんな所で圓山応挙に出会えるとは、この日一番の発見でした^^
場所は穴太寺かた徒歩5分ほど、穴太寺前を正面に見て左折→小幡橋を渡ってすぐ左折、で金剛寺です。穴太寺をご訪問の際は是非こちらもどうぞ・・・。
場所:亀岡市曽我部町穴太宮垣内43

金剛寺,丸山応挙,応挙寺



●曽我部町●


竜ヶ尾・霊仙の山々に囲まれ、西南に発した天与の水系、曽我谷川などの恩恵に潤う肥沃の曽我部盆地は、昔から良質の米を産することで有名です。

写生派をなした画匠の円山応挙は世界的に名の知られた曽我部町に生まれた先人です。



●明智戻り岩●

≪曽我部町の伝説≫

むかし明智光秀は亀山城(現在の亀岡市亀山城跡)を拠点とし丹波一円の平定に努めていました。光秀は八上城主の波多野秀治率いる軍と法貴坂で戦いましたが、激戦すること数日、戦いに利があらず亀山城へ退却しました。この時退却をした場所に大岩があったため、この岩を「明智戻り岩」と呼ぶようになったということです。

また一説には光秀が大阪を攻めようとして法貴坂まで来たところ、その前途を塞ぐような屏風岩が高くたっており、光秀はこの岩の向こうに大勢の敵がいるかもしれないと恐れて引き返したとも言われ、また、こんなに大きな岩があるのであれば奥にはもっと大きな岩があるだろうと恐れて引き返したとも言われています。



●加塚●

≪曽我部町の伝説≫

亀岡から曽我部に通じる道の右手に町墓地があり、その藪に囲まれて俗に「加塚」と呼ばれる塚があります。

話によると、これは行基が蚊を封じ込めた塚だと言います。
また一説では昔この地で戦争があり、敵味方の死骸を仮に埋めたので「仮塚」だとも言われています。
別の説では安行山に居住した安部晴明の埋葬地とも言われています。



●生首谷●

≪曽我部町の伝説≫

曽我部長に生首谷という谷間があります。

昔大変臆病な武士が日が落ちてからこの谷を越えようとしたところ、前方の棒のようなものの上に女の生首を見つけました。驚いて元来た道を引き返し、前方に見えた灯火の家に入り一晩泊めてもらえないか頼んだところ、家にいた男の顔がとても恐ろしく目は爛々と輝き睨み付けられました。臆病な武士は怖くなって家から逃げ出し、ようやく村落に辿り着き村人にこの話を打ち明けました。
翌日村人たちが行って見ると確かに女の生首が残っていました。それからこの谷を「生首谷」と呼ぶようになりました。

一説には生首谷にはむかし鬼が住んでいて、人間の生首を捨てた谷であると言われています。



●與能神社●

≪曽我部町寺蛇谷1番地≫

丹波地方を統治するため神様が亀に乗ってこられたので「亀山」(現在の亀岡)の地名が残っていると言われ、今でもこの與能神社の「つかわしめ」は「亀」であり、川や田で捕まえられた亀はお宮の放生池に放たれる風習が残っています。

平家物語の「鹿ヶ谷」の段に、治承元年、平家打倒の計画が漏れ平清盛のために鬼界ガ島へ流人となった僧俊覚と丹波の少将藤原成経の話がありますが、その門脇平宰相の娘が病気になり祈祷師が願掛けをした内の一つがこの與能神社と言われています。

「六華祭」という祭礼が10月に開かれますが、その時のお神輿は亀岡でも一番重いと言われる立派なものです。



●天満宮●

≪曽我部町犬飼北山4番地≫

12月25日のお火焚祭りでは全戸からお供えがあり、餅や蜜柑などを社からまくと、老若男女がきそって拾い、家族一同でお供えを頂き無病息災を祈るという珍しいお祭りの風習が今も残っています。



●厄済神社●

≪曽我部町南条岩ヶ谷≫

この神社は石積の基段上に盛り土があるだけでホコラがありません。地鎮祭などの封土(盛り土)と同じで、大きな山、木、岩などに神様が宿るとする素朴な信仰があります。
土地の人々はヤケスギさん(厄済みのなまったもの)と親しみ、また恐れて祀っています。このような原始的な土俗信仰が残っているのは、亀岡でも貴重な神社だそうです。

この神社には次のような伝説があるそうです。
ヤケスギさんの祭神は白い蛇であるといい、この白蛇を見た人はいませんが現在の平和公園になっている中山池へ夜な夜な水を飲みに行くと言われていました。白蛇が通った後は草木が倒れ伏して白い1本の道になったと言われています。

ヤケスギさんに願をかけた時は、そのお礼として川魚を串に突き刺して封土の上に突き刺しておかねばバチがあたると言われてきたそうです。現在もこの風習は残っており、近所の川や池でとれた新鮮な小魚をお供えする農民の素朴な信仰心のあらわれだと思われます。

この不思議な神社境内には美しく澄んだ湧き水があり、この水で眼をあらうと眼病が治るとか、飲むと諸病に効くなどと言われ、近隣からもこの神水をもらいに来るのだそうです。

土地の人は丑の刻参りをよく行い、大きな木には五寸釘を打たれた藁人形があったとの怪談も残っているとか・・・。



●八幡宮社●

≪曽我部町重利矢折39番地≫

亀岡は頼政塚、義経の腰掛岩などがあり、義経の領地でもあったことから源氏にゆかりの深い土地です。

源氏は元々関東に勢力を持っていましたが、戦勝祈願を鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮で行ったことから武の神として八幡宮の名を挙げたと言われ、亀岡の八幡宮にも足利氏、源氏などの武将とつながりのあるお宮さんが多くあります。
この重利八幡宮もその関係ではないかと言われています。「重利」の地名も元は武将の名前から出ているといい、住所にある「矢折」など戦場であったと思われる地名が残っており昔が偲ばれます。

祭りの時には各戸より神饌がうず高く供えられ、当日は若者たちによって奉納相撲が行われ賑々しい祭り風景であるとのことです。


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